275 名古屋城見学と所感
杉田荘治
はじめに
名古屋城が再建されてから二ないし三回、見学したが、それ以後、長い間、見学した
ことはなかった。 というのは、コンクリ―ト造り、エレベータもある城に興味を失ったから
である。
しかし最近、高齢になり本丸御殿も一部、再建されたと聞き、今一度見学したいと思うよ
うになったので先日、出掛けた。以下、ウキペデア フリー百科事典なども参考にしなが
ら概観し、所感を述べる。
名古屋城
徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城した。以降は徳川御三家の一つで
もある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。2006年(平成18年)4月6日、
日本100名城(44番)に選定された。
天守閣
すなわち徳川家康は1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城した。
なかでも最も高度な技術を要した大天守台石垣は普請助役として加藤清正が築いた
とされる。
しかし1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、小天守、東北隅櫓、
正門、金鯱などとともに焼夷弾の直撃を受けて焼失した。
しかし天守閣は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に
再建されて、復元されて金鯱とともに名古屋市のシンボルとなっている。
天守閣は層塔型で5層5階、地下1階、その高さは55.6メートル(天守台19.5メートル、建屋
36.1メートル)と、18階建ての高層建築に相当する。高さでは江戸城や大坂城の天守に
及ばないが、延べ床面積では4,424.5m²に及び史上最大の規模であった。
再建天守閣は5層7階、城内と石垣の外側にはエレベータがそれぞれ設置されており、
車椅子でも5階まで上がることができるバリアフリー構造となっている。
なお1937年(昭和12年)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の
の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売ろうとして逮捕され
た事件もあった。
天守閣についての所感
はじめに述べたように久し振りに天守閣などを見学したがエレベータ-は役に立った。
元の木造天守閣に再度造り直す計画もあるようだが反対である。 あの急な階段の上
り降りは高齢者にとっては、とても辛いことになる。 [息子や若者達が背負ってやればよ
い]という仁もいるようだが長続きはしまい。 今ある展示物もそれなりに有益である。
照明の問題も残る。戦闘時のみ使用することを想定して造られている大天守である。
多くの観光客が訪れる建物として、いかに堅固な木造物にしても不安は大きいであろう。
もちろん財源の問題もあるが、もしその目安があるなら二之丸御殿を再建されたほうが
よい。 もっともこれは現在の県体育館をどうするかにかかわるので難しい問題ではあ
るが、しかし不可能ではないようにおもわれる。
というのは県体育館は兵舎になる前は二之丸御殿[御城]とは別の馬場であり、また向
屋敷も別にあったのであるから二之丸御殿[御城]に限っていえば敷地の確保は可能だ
からである。
本丸御殿
城主(藩主)が居住する御殿であったが、1620年(元和6年)将軍上洛時の御成専用とするこ
とになり、約5年後、藩主は二之丸御殿に移住した。本丸御殿を使った将軍は秀忠、家光、
家茂の3人で、上洛の途中に宿泊している。このように御成御殿となった後は藩士により警備
と手入れが行われるのみで、藩主ですら本丸に立ち入るのは巡覧の時のみであったといわれ
る。
前述のように1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。 1865年
(慶応元年)に、14代将軍徳川家茂が上洛の途中で本丸御殿に宿泊したが1泊のみで翌日に
は名古屋城を出発している。
天守閣とともに消失したが続いて本丸御殿の復元が計画され、2008年(平成20年)に復元工事
が着工され、2010年(平成22年)に第一期工事のうちの玄関部分の復元過程の一部が特別公
開された。
またこれにあわせて、戦災を免れた障壁画の復元模写も同時に進められている。2018年
(平成30年)の全体公開を目指して総工費150億円が投じられて復元されつつある。
内部にあった障壁画のうち移動可能な襖などは取り外して倉庫に収められていたため焼失
を免れ、戦後重要文化財に指定、保存されている。
現在本丸御殿は2009年(平成21年)1月19日に着工。2013年(平成25年)5月29日より、
玄関と表書院(謁見の場所)が一般公開された。2018年度(平成30年度)全体公開を予定さ
れている。
本丸御殿についての所感
すばらしい。 しかし将軍の御成御殿となった後でも、実際に使用したの秀忠、家光、
家茂の三人のみであったことは驚きである。徳川幕府が盤石なものとなり、上洛する
必要がなくなったからであろう。 将軍宣下の勅命も江戸城で行われた。
しかし、幕末になり、ご承知のように皇女和宮のご夫君である第14第将軍の家茂は
義兄に当たる孝明天皇に促されて上洛し攘夷を誓ったのである。229年振りの上洛で
あった。 また後述のように藩主たちは、ここに約5年間住んだ後、新築された二之丸
御殿に移り住んだのであるが、しかしその約5年間、この本丸御殿での藩主たちの居
住ベースや藩庁機能のペースは一体どこにあったのであろうか。
また上洛殿が完成した後、家光、家茂の二人は車寄から入ったものと思われる。
そのさい各部屋の前の長い廊下を歩いて上洛殿に入らなければならない。もし
その時各部屋との襖戸か゛開いておれば[予にかかる見苦しい部屋を見せつけるのか
]と厳しい叱責や処分が予想される。 従って閉ざされていたものと考えられるが、その
さい厳重な警護が必要であろう。 どの部屋から何が飛び出すかわからないからであ
る。 御殿の保存と警護についての措置が問われる。
なお本丸御殿を見学したさい、その対面所の上段の間を[藩主が脱衣の場に使って
いた]と書いてある名古屋城検定のガイドブックがあるとある見学者が話していた。
驚いた。 たぶんどこかの箇所の読み違いと思われるが必要とあれば訂正してください。
また現存の本丸御殿には藩主などの居住施設や藩庁機能の施設などが全くない。
当然、それらは現存の御殿に隣接していなければならないが、一体それは何処にあっ
のであろうか。一応、今、再建中の上洛殿エリアが考えられるが狭すぎる。また家光
が知れば、その跡地に上洛殿を造ったことことを不快に思うであろう。しかも、上洛殿と
二之丸御殿の新築を同時に進めなれければ゛ならないので、それは不可能である。
そうすると現在その反対側にある広い空き地が考えられる。多くの人たちが天守閣
を背景にして写真を撮っている場所である。多少狭いと思われるが初期の尾張藩として
は十分であろう。 いずれにせよ、これについての説明も期待したい。
なお、将軍専用の調理場として上台所がある。 現在、ミュウジアムショップとしてグッ
ズを売っている売店であるが、さすがに売店そのものも美しい。構造は本瓦葺、天井に
煙出しの工夫もなされている。いずれ本丸御殿と通じるようになると思うが、ここで料理
した食べ物を長い廊下を通って上洛殿まで運ばなければならない。冷めてしもうことが
考えられる。なるほと途中に下御膳所があるので、そこで少し温めたと思われるが、そこ
でもまた毒味などにかなり時間を要するであろうから、将軍の口に入る頃は食べ物はかな
り冷めていたであろう。 高貴な方はいつも冷めた物しか食べていなかったとする実証的
な例としてみれば興味深い。
上洛殿エリアに上台所があり、その機能を果たすとなれば、料理が冷める懸念は少なく
なるが、その場合現在の[将軍専用]とする説明はどうなるのであろうか。家光、家茂は
上洛殿のそれによるので、事実上、ここでの料理は秀忠用のみということににる。その説
明も待たれる。
二之丸御殿
前述のように藩主義直は本丸御殿に約5年、住んだ後、この二の丸御殿へ移り住んだ。
二之丸にあった平岩親吉の屋敷を改修して、1618年(元和4年)二之丸御殿とした。
それ以後、二之丸御殿は「御城」と称され、藩主の住居兼尾張藩の藩庁機能を有することと
なった。その敷地は現在の[二之丸広場]、その南部、また体育館側との境に設けられている
垣根を超えて南に少し広がっていたと考えられる。
明治に入り二之丸御殿や4棟の櫓は名古屋鎮台となった1871年(明治4年)頃に取り壊さ
れ、現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門
は本丸東御門二之門跡に移築されている。その他の二之丸内の建築物はすべて取り壊さ
れたが、現在庭園の一部が復元整備されている。 また[御城]の南部゛にあった向屋敷とも
に陸軍第六連隊となり馬場跡には一時期名古屋大学本部など同大学の施設が置かれた
後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。
二之丸御殿についての所感
前述のように、その復元を期待したい。また[御城]とは別にあった向屋敷を含めれば広
大なものであった。この点を見落としてはならない。
気になる点
向屋敷についての記述が余りにも少ないことが問題である。藩主自身が武芸を練り、
また藩士の武術を検分するためにあった施設である。
また、現存する名古屋城内と県体育館側とを画するために設けられた垣根とフェンスが
誤解を生みやすい。 当時は藩主は勿論のこと資格のある藩士は自由に[御城]と向屋敷を
行き来してい筈であ。 垣根を迂回していたわけではない。
六連隊の敷地も広大であったことをを見落としている。現在の城内に収まるはずがない。
青松葉事件
慶応4年(1868年)1月20日から25日にかけて発生した尾張藩内での佐幕派弾圧事件
である。弾圧の対象者は重臣から一般藩士まで及び、斬首14名、処罰20名にのぼった。
14代藩主徳川慶勝が京都から帰国し、その日のうちに処分がなされていることから何ら
かの、密命を朝廷から下されたと思われるが、真相はいまだにはっきりしていない。
事件名は、処刑された重臣のうちの筆頭格である御年寄列・渡辺新左衛門在綱の家が
「青松葉」といわれていたことからとっているという考えが有力とされている。
14代藩主徳川慶勝は就任以来尊皇攘夷の立場をとり、そのあと慶勝が隠居の身ながら
藩政の前面に出て頻繁に上洛して政局にあたった。 大政奉還後、慶応4年1月3日から
5日にかけての鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北した。その一報が名古屋に届くと、
京都に派兵するかどうかで、対立が深まった。 そのあと向屋敷の前庭で斬首された
のである。いずれも弁明の機会を与えられなかった。
この事件ののち、尾張藩は官軍の一員として各地で幕府軍と戦った。天領及び譜代の多
い東海の諸藩代官が日和見的立場から中立化に変化したのは尾張藩誘引使が勤皇証書
を出させた件が大きい。これによって官軍の江戸への進軍を容易にさせた。しかし、それ
によって得た果実はあまりに少なかったといわれる。
所感
現在、城内の売店に近くに石碑が立っている。 しかし実際の処刑跡ではない。
それより南へ約100メートル離れた場所がそうである。 以前は現在、[六連隊の跡]
の碑が建てられている付近にこの碑は建っていたが不明になったので現在地に再
建されたのである。また現在、近くに[王命に依り催す事]とする藩訓秘伝の碑が立っ
ているが、それに拠って官軍側についたのて゛あろう。
また前述のように、わが国の重大な時期に尾張藩が藩論を統一して朝廷側につい
た功績は大きい。 しかし、いわゆる佐幕府とされ処刑された家老たちの忠誠心も忘
れれてはなるまい。 ほとんどのガイドの皆さんが、この石碑の横を素通りされてい
ることか゛気になる。なるほどこの事件は複雑であり説明も難しいが、しかし彼らも立
派であった旨の説明も一言あってもよいように思われる。
二之丸庭園と二之丸東庭園についての所感
すばらしい。 文政年間(1818-29)に二之丸庭園を大改築して現在の二之丸東庭園
が造られた。その後、兵営化が進められたが昭和50年、絵図に基づいて一部、発掘
調査を行い遺構も整備して昭和53年4月、二之丸東庭園として開園された。訪れる人
も多くはないが、それだけに静寂でよい。 なお補足すると、東庭園の東端に六連隊
の隊員の増加とともに二棟の兵舎が造られたが、それは戦後、学徒援護会の学生寮
として利用された。 前述のように、二の丸庭園も取り払われ第六連隊の敷地内とさ
れたが、幸いにも庭の核心部である北西部分は残された。 しかも現在ある二の丸
茶亭の場所を兵舎からかなり離れて将校集会所としてのみ用いるなど、できるだけ
現状保存に留意された。勿論、建物は異なるが同じ場所である。
平成25年度から名勝庭園にふさわしい庭園に戻すため保存整備が進められている。
完成が待たれる。
補足 1 ガイドの説明で[名古屋城は徳川幕府が造った]とするものがあった。勿論、間違いでは
ないがそれでは真意は伝わらない。本文で述べたように 徳川家康が九男義直のた
めに1610年(慶長15年)、西国諸大名に命じて築城させたのである。豊臣政権に対する
恐怖はまだ残り、彼らの財力をできるだけ殺いでおこうとしたことか大きく働いている。
補足 2 加藤清正についても誤解がある。[清正の石曳]の像や[清正の石]とされる巨石などが
あり、城外にも大きな像がが建っているので誤解されるのであるが、清正が名古屋城を
造ったのではない。彼は西国20大名の一人で築城の名手であったが。
永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の
名古屋市中村区)に生まれた。
秀吉に小姓として仕え、秀吉に可愛がられた。これに清正も応え忠義を生涯尽くし続
けた。関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与え
られて熊本藩主になった。 52万石 しかし 三男・忠広が跡を継いだが、寛永9年
(1632年)、加藤家は改易となり、忠広は堪忍分1万石を与えられて出羽庄内藩にお
預けとなった。
おわりに
将来、天守閣、本丸御殿、二之丸御殿、二之丸庭園、東庭園と揃った『名古屋城』を期
待したい。 また、ある程度、英語も話せるので訪れる外国人に役立つ話しもして楽し
みたい。