概要は次ぎのとおりです。
『校門を出たら私人でよい ?』
杉田 荘治
Q 「校門を出たら私人でよい」でしょうか。
A 結論的にいえば、「校門を出たら私人」でよいでしょう。
というのは、教育公務員が職務に専念すべき場は、授業を中心にして、通学指導、修学
旅行などの学校行事や家庭訪問なども含めて「学校」です。 一旦その「学校」を出れば
職務の責任はありませんし、またリフレッシュすることも必要ですから、なおさら、そう言えま
しょう。 しかし教職は全くそうとも言い切れない性質をもっていることも否定できません。
順次、これについて、見解を述べましょう。
Q 関係法規からみてどうですか。
A 教育公務員特例法第21条(研修)に「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず
研究と修養に努めなければならない」と規定されています。 そのために「任命権者は、教育
公務員の研修について、それに要する施設、研修を奨励するための方途など研修に関する
計画を樹立し、その実施に努めなければならない」として任命権者の義務も明記しています。
これは教育公務員ならではの法的な規定といえますが、その“絶えず”は「校内外」を意味
していることは確かでしょう。
また教育基本法第6条Aにも「学校の職員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自
覚し、その職責の遂行に努めなければならない」とあるし、政治的中立確保法では「校門を
出た」後といえども教職員として遵守しなければならない行為があります。 第一、教職員
にも適用される地方(国家)公務員法でも、「職員は、その職の信用を傷つけ、又は職員の職
全体の不名誉となるような行為をしてはならない」との規定は、当然「校内外」を問わず、信用
失墜行為をしてはならないことを意味しています。
このように教育公務員として「校内外」を問わず、“襟を正さなければならない”ことがあるこ
とは法的に見ても明かです。 したがって実際には「その程度」が問われることになりましょう。
Q それでは、「その程度」について説明してください。
A 一言でいえば「社会通念に照らしてみて」ということになりましょうが、例えば旧友のクラス会
で冗談まじりに「そこは君は教師だからなぁ、、、、」といわれて、「そうだなぁ、ここはひとつ襟
を正しておくかぁ、、、」と笑って応じる程度でよいのではないかと考えます。 このように人とし
て“襟を正す”程度より、前述の法規の趣旨からみて、ほんの少し厳しい程度がよいでしょう。
したがって最近よく聞くことですが、全知全能的な教師観(像)を前提にして批判・非難したり、
また禁欲的な“聖職者”であることを強く求めるような程度のものは論外といえます。 そのよう
なケースが起これば、それこそ学校管理職や教委は、それらから教職員を守ってやることが
職責といえましょう。
また文科省は今年2月、『児童生徒懲戒・体罰に関する考え方』についての見解を通知したが、
そこでは、児童生徒に対する有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒は、
その一切が体罰として許されないというものではなく、裁判例においても、「いやしくも有形力の
行使と見られる外形をもった行為は学校教育法上の懲戒行為としては一切許容されないとする
ことは、本来学校教育法の予想するところではない」として昭和56年4月1日東京高裁判決を引
用しました。 これは懲戒・体罰に関する『その程度』ですが、これも参考になりましょう。
Q アメリカ(U.S.A) で職務との関連性について参考になることがありませんか。
A 1985年判決分ですが、しかし最近の判例でも引用されている教育判例ですから、教員と
職務との関連性について参考になると思いますので、その要点を下記しておきましょう。
この事件は、フロリダ州で、ある女子教師が修学旅行中にロマンチックな気分になり、
皆の前である男子生徒を抱きしめたり自分の部屋で介抱したりしたため、解雇された。
しかしフロリダ州控訴裁判所は「不道徳の基準とは社会通念としての道徳基準であるべ
きて゛あるが、教委はそれより厳しい独自の基準を設定して恣意的に判断した」として、
その解雇処分を取り消した。
Hoolmes
v. Turlington, 480 So.2d 150 (Fla.Dist.Ct. App. 1985)
このように職務遂行との関連性を重視し、その悪影響の程度を慎重に考慮するように
なってきていますし、 また「不道徳」の場合でも「地域社会に敵対する程度」や「その教員の
権利と生徒を保護し教育する州の教育的利益」との均衡について一層、考慮するようになっ
ています。
Q 『教師の日』を制定すべきだという意見を聞いたことがありますが。
A 愛知淑徳大學の酒向 健名誉教授は『教師の日』を制定することを提唱されています。
「このころのように、学校は家庭教育の不在をかこち、家庭は学校を批判しているよう
な状況では救いはない。私は、我が国にも、まだまだ師を尊敬するという教育の基
本土壌は枯渇していないと思う。 もし、時を逆行させて、校長時代に戻ることが出来
れば、学校に『先生の日』を学校行事として設け、、、ゆくゆくは我が国にも、『教師の
日』が国の祝日として、校内行事にとどまらず、地域有識者を集めての行事にまでした
いものと考えている」と提唱されています。
この提唱は前述の「校門を出たら私人でよい」論と矛盾するように見えますが、私は、そ
の根において一致していると考えています。 このことを結論として述べておきましょう。