杉田 荘治 |
はじめに
それは、日本の遠い、遠い昔の物語であるが、ある海岸の村落で、村の鎮守様の祭りの準備
に余念がなかった村人たちに、脱穀前の稲穂の山に火をつけて、津波の襲撃を知らせて彼らを
救った、ハマグチ五平衛の業績を讃えて、村が復興された後、 村人たちが、彼がまだ生きてい
るにもかかわらず、村のはずれに小さな祠を建 てて彼の霊を祀って、毎日、お参りしたという物
語である。 日本人の宗教心を説明するのに興味深い話しである
この『生ける神』は、わが国では『浜口大明神』、『稲むらの火』などとして親しまれている物
語である。 ことに『稲むらの火』は以前、小学校の国語教科書に載せられていたので、年配
の人には懐かしい物語であろう。
T 原典
原作は小泉 八雲 ( Lafcadio Hearn ) の A living God である。
現在、富山大学『ヘルン文庫』の H092.2 の中に『Essays and sketches』= 論文と随筆とし
て保存されている。そこでは " A living God " (生神) となっている。
【参考】 ヘルン文庫は、富山市岩瀬の馬場 はる子女史が旧制富山高校の創設に貢献され
るとともに南日校長の願いを受入れ、その開校記念に小泉家が所有していたハーン
の蔵書を買い取って寄贈されたものである。
原作の中心人物は Gohei となっているが、和歌山県広川町の浜口 梧陵をモデルにした
ものと思われる。彼は 通称、儀兵衛で1820年に当地で生まれ、1885年にアメリカで没して
いる。 従って 正しくはGihei であろうが物語では Gohei あるいは五兵衛 となっている。
彼は優れた人格と博愛の精神で人を救済・援助したり、事業を行って村民から尊敬されて
いた。
【参照】 和歌山県[愛育園 ]ホーム ページ [浜口 梧陵伝]
この原作をもとにして、仲井 常蔵によって『稲むらの火』が作られ、小学校国語読本巻 10
に載せられたのである (1937 - 1946)。 人物名は五兵衛となっている。勿論、防災の教訓
ともされようが、むしろ日本人の心や宗教心を伝えるものとして注目したい。
【参照 】群馬大学・早川 紀夫ホーム ページ
清水 勲『防災教育と稲むらの火』 歴史地震 1996
U 要約
前記[愛育園]のなかの [小泉 八雲の 生ける神]と、『稲むらの火』から、生き神の部分を
中心としてこの物語を要約することにする。
○ この浜口 五兵衛の物語は明治よりずっと前に、ある日本の沿岸地方で起こった津波の
物語である。 村人たちは彼を 「おじいさん」と呼んで親しみ、また尊敬していた。
彼は、
よく小百姓たちの争いを仲裁したり、利益が得られるように計らったり、また必要な時には
前貸しもしてやり、彼らの作った米を出来るだけ高値で買ってやったりした。
○ 彼の大きな藁葺きの家は、入り江を見下ろす高台端に建っていた。
ある秋の夕暮れ、五兵衛は自分の家の窓から下の村で行われている祭りの準備の様子を
眺めていた。 その時は、10才になる孫と二人きりであったが、その日は蒸し暑く、空気には
重ぐるしい熱気が感ぜられた。
○ すると間もなく地震が起こったが、それほど強いものではなく揺れはすぐにおさまった。し
かし浜口の鋭い目は海の方へ向けられ、沖合いの異常に気づいたのである。 すなわち、
海は不意に暗くなり奇妙な動きをしている。風の向きとは反対の方向に動いてみえるでは
ないか。
浜口自身も、これまでにこんなものを見たことがなかった。しかし彼は子供の頃、おじいさ
んから聞かされた話をすぐに思い出して、これから何が起ころうとしているのかを理解した。
○ 「タダ ! 早く ! 大急ぎだ ! 松明に火をつけてもってこい 」。 彼の家の前には何百もの稲むら
が納屋に運び込まれるばかりになって並んでいたが、彼はそれらに火を次々とつけていった。
彼は未だ危険を知らない 400人の村人を救うことだけしか頭になかったが、孫は祖父は気
が狂ったのだとしか考えなかった。 すぐに山寺の修業僧が火の手を見て寺の大鐘を鳴らした。
○ 「これはただごとではない」。 全ての村人たちが駆け寄ってきて、若い農夫たちは火を消そ
うとしたが彼はそれを押し止めて海の方を指差した。 「津波だ !! 」と人々は口々に叫んだ。
巨大なうねりが怒涛のように押し寄せ、山々はとどろき、一面稲光のような白い泡で全ての
ものが包まれ、自分達の家があった所で荒れ狂う波を見るばかりであった。
○ 高台では、しばらく話声ひとつ立てずに 皆、押し黙って眼下の惨状をじっと見つめていた。
○ 長者であった彼は、すっかり財産をなくしてしまったが、その犠牲によって
400人の命を救っ
たのである。その後、村人にとっても苦難の日々は長く続いてたが、彼らは決して五兵衛に
対する恩義を忘れず、ようやく村の再建が成った時、彼を浜口 大明神とよび、五兵衛の御霊
をまつる小さな神社を建立し、供物を供えてお祈りするのであった。
彼自身が、このことをどのように考えていたか、それはわからない。 しかし彼は、それからも子
供や孫たちと一緒に高台の家にずっと住み続け、またその人柄は以前と少しも変わらなかった。
その神社は今でもそのままに在って、村人たちは何か心配事や困難なことに会うと、その御霊に
お祈りを捧げるとのことである。
V 小泉 八雲 ( Rafcadiio Hearn )
の略歴
○ 1850年 ギリシャのレフカダ島で、イギリス軍軍医を父とし、ギリシャ人を母として生まれる。
その後、父母離婚。ともにいた父も病没し 7才にして両親を失ない伯母に引き取られる。
○ 1869年、19才でアメリカに渡る。ニュー オリンズで出版の編集助手、新聞記者、そして文
筆活動を始める。
○1884年、ニュー オリンズで開催された万国博覧会で日本政府派遣の服部
一三と知り合い、
1890年日本へやってきた。
○ 1890年、島根県・旧制松江中学の英語教員となる。 その後、彼の世話をした小泉節と結婚。
彼女は士族の娘で教養があり、彼の著作と生活を支えた。
○ その後、熊本の旧制高校で教鞭をとったが神戸に移り、英字新聞のジャーナリストとして活
躍。 日本に帰化して[小泉 八雲]と名を改める。 1896年 東京帝国大学[英語英文学]教授。
○ その7年後、早稲田大学教授。1904年 9月、[神国日本]のゲラ読みの途中、狭心症のため
死去。
●主なる著書 ... [仏の畑の落ち穂]、[異国情緒と回顧]、[霊の日本]、[影]、[怪談]、[耳なし芳一]
【参照】 前記[ヘルン文庫]から抜粋引用。なお、 ハーンは生徒から[ヘルン先生]と呼ばれてい
たらしく、また彼もこの読み方が気にいっていたようなので、それらから、[ヘルン文庫]と
された。
【註】 彼の遺作[神国日本]に関連して、最近、首相のいわゆる[神の国]発言が問題になったが、
佐伯彰一さんが、それを擁護する論評をされ、そのなかで、ハーンの[神国日本]を引用され
た。 それに対してハーンを冒すものであるとの非難があったが、しかし佐伯さんの論評の
真意をとれば、それは当たらないように思われる。
付記 NHKは浜口
梧陵について、2005年(平成17年)1月12日、「そのとき歴史は動いた」でその
功績を称え、97%の村民が助かったことや私財を投げ打って巨大な堤防を築いたことなどを
放映された。