8. 日本人の宗教心

English version is here

杉田 荘治

はじめに

   日本人の宗教心については誤解がある。 それは、聡明な日本人でさえ時には、「私は無宗教です」
  と答えることがあるので、外国人は、日本人は真摯な宗教心を持っていないのではないかと誤解する
  のである。 そうではない。

   彼らは真摯な宗教心を持っており、その宗教心は民族神道あるいは民間神道といってもよかろうが、
  それが源ともなる心をもっている。 ただ、彼らが意識していないだけなのである。

   また日本人は、本質的には神も仏も同一だと考えているし、多くの日本人は人 が死 んだら仏(神)
  になると信じている。 したがって(生き仏)の宗教観も根強く残っている。

   また彼らは、あまりにも一つの宗教や宗派へ帰属する意識の強い人に対しては、一定の距離を置い
  ており、他の宗教や宗派についても寛大で、時には無関心でさえある。

   また日本人は祭りが好きである。 それは「神を供応する」心から出たもので、神とともに自分たちも楽
  しむ行事と考えている。

   ところで、都会化され、人々は孤立しがちな現代社会にあって、いかにして宗教的な救いを見出すか
  は非常に難しい問題であるが、前述したことについて順次、私の見解を述べよう。
   彼らの宗教心の根本は民族神道であり、価値観も、それに因っている。
  例えば、多く日本人は、それが仏教徒であれ、時にはキリスト教徒であっても、いや、「私は無宗教で
  す」という人たちでさえ、正月には神社で手を合わせる。 毎年、名古屋の熱田神宮へは正月3日間で、
  100万人以上の人が、東京の明治神宮へは200万人以上が訪れるなど全国各地で多くの人たちが、
  それぞれ名のある神社や寺院、名もないお宮やお寺へお参りに出かける。

   その時も、彼らは、この神社はどの宗教法人の神社だとか、これは各派神道の神社、皇室関係の神
  社などにについて、そんなに意識しているわけではなく、ただ「自分たちのお宮さん」と考えてお参りし
  ているのである。 靖国神社も同じで、「宗教と政治との分離」論は学説上のことであって、彼らは「自
  分たちのお宮」の一つと考えているのである。


   また他の例として、地鎮祭が挙げられよう。
  すなわち、新しく家、工場、高速道路、研究所などを造ろうとする時、日本では、オ-ナ-、技術者、作業
  員の代表者などが集まり、神にお祈りして、怪我のないように、また無事に完成するように願う行事が、
  ごく一般的に行われている。 その際、それが、どの派の神道の流儀によるとか、政教分離などとは考
  えず、ただ素朴で清く、自然と共生しながら無事に完成を願う心に拠ろうとするのである。高度な技術、
  難儀な工事といわれるものほど、その願いは強いといえよう。 最近ある有名な国立大学ボート部の
  ボートの進水式に神主が神事を行っていたが、ごく自然にうけいれられているように思われた。


    日本人にとっては神も仏も、本質的には同じである

   「東照大権現は神 ? それとも仏 ?」 との質問に対して、多くの日本人は、「そんな区別はあまり意味が
  ない。とくかく徳川家康の魂の神さまであり、仏さまでもある」と答えるであろう。

   一般的には、結婚式や祭事は神道形式によるし、葬式や仏事は仏教形式によるが、時には、その逆
  もあり、人々はそれを自然に受け入れていて特に違和感はない。


   キリスト教徒も厳密にいえば、唯一の神を信ずることが真理であろうが、日本人の教徒たちは必ずしも、
  そうではないように思われる。 また最近、若いカップルの間ではキリスト教形式の結婚式が一種の流行
  になっているとも聞くが、それとても別に不真面目ではなく、神の前で真摯に誓う心 に変わりはない。

   また神道でも、(大神)、(尊)、(命)、(姫命)、その他多くの神神があるし、仏教でも(如来)、(観音)、(菩薩)、
  (観音菩薩) 、その他多くの仏がいる。 学術的には多少の違いがあろうが、そんな分類は一般の日本人
  にとっては問題ではなく、それぞれ有難いのである。 このように、彼らにとって神とは、すべての神神、
  すべての御仏なのである。

   生き仏

   多くの日本人は、死んだら仏(神)になると信じているし、生き仏の宗教観も根強い。

   このことについて、私は自分の子ども時代の、ある光景を今でも思い出すが、それは、お通夜で、ある
  老婆が遺体に向かって、しみじみと「あなたは今、仏様になったね」 と話し掛けていた光景である。


   ましてや日本人は、並々ならぬ人格の持ち主や、優れた業績を挙げた人の神社を造って崇拝している。
  例えば、萩市の松陰神社は有名であるが、そこには吉田 松陰が祀られているし、京都の北野神社・天
  神様には平安時代の優れた菅原道長の霊が祀られていることは周知のことである。
  また、神社だけではなく寺院も存在する。 例えば、名古屋の政秀寺には、織田信長の家老であった平手
  政秀が祀られているが、彼は戦国時代に若き主君を諌め切腹した人物である。

   さらにはまた、「生き仏」の宗教観も根強い。 後述する物語は、ラフカディオ・ハ-ン(日本名・小泉八雲
  )によって原作は書かれたものであるが、日本人の「生き仏」思想を理解するには、良い例だと考えるの
  で、その概要を述べよう。

    日本人は祭りが好きで、神とともに楽しむ

   祭りは「神を供応する」心から出たもので、神とともに自分たちも楽しむ行事である。
  村落だけではなく、大都会でも、人々はおおいに祭りを楽しむ。 それは神をもてなし、神が楽しみ人々も楽
  しむのである。それがなければそれがいかに華やか“祭り”であっても、商業主義による行事であって満足
  感も、おのずと違うのである。 このように、祭りの本質は神へのもてなしを秘められていることを忘れては
  ならない。  ところが、時々、祭事の行われている神殿の奥にまで「国民の知る権利」とか称して、人やカ
  メラが入り込み、この秘められた心の交流を妨げるような振舞いがみられるのは残念なことである。


   日本人は一つだけの神、一つだけの宗派を忠実に信じることには、注意深い

   日本人は唯一神の信者には、感心しているかもしれないが、実際には、ある距離を置いている。従って、
  日本では、キリスト教の布教も、かなり困難だろうと私は考える。 事実、数年前、30年以上も日本に住ん
  でいたアメリカ人牧師が、そのようなことを話して嘆いていたことを覚えている。 また日本人は、一つの宗
  派に固執する信者には、あまり好意的ではない。
  仏教でも、いろいろな宗派-真言宗、天台宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗その他多くの宗
  派があるが、彼らの多くは、自分の帰属する宗派には無頓着で、また他の宗派についても寛大である。
  
    結び   現代社会で、いかにすれば宗教的救いが得られるか

   これは難しい問題である。 現代社会は余りにも忙しく、また伝統的な宗教・宗派も確固たる助けを準備し
  ていない。 一方、人々は色々なことに悩み、また自分は一体、何者なのか、わからなくなってきている。
  そこで「新興宗教」が現れ、人々に何らかの方向性を示し、その共同社会に取りこもうとする。 魔術的なも
  のを信じ、多額の喜捨をし、大集団 の会合に参加することで、宗教的な救いが得られているのか。 それ
  はわからない。 ただ、空しさが残るだけだとならないことを願うものである。

  すぐに見出せる答えはないかもしれないが、今まで述べてきたことに思いを致し、日本人としての宗教観
  によりたいと願っている。

  1997年7月記

  8-補足   『生ける神』: A Living God



はじめに

   それは、日本の遠い、遠い昔の物語であるが、ある海岸の村落で、村の鎮守様の祭りの準備
  に余念がなかった村人たちに、脱穀前の稲穂の山に火をつけて、津波の襲撃を知らせて彼らを
  救った、ハマグチ五平衛の業績を讃えて、村が復興された後、 村人たちが、彼がまだ生きてい
  るにもかかわらず、村のはずれに小さな祠を建 てて彼の霊を祀って、毎日、お参りしたという物
  語である。 日本人の宗教心を説明するのに興味深い話しである

この『生ける神』は、わが国では『浜口大明神』、『稲むらの火』などとして親しまれている物
語である。 ことに『稲むらの火』は以前、小学校の国語教科書に載せられていたので、年配
の人には懐かしい物語であろう。

T 原典

 原作は小泉 八雲 ( Lafcadio Hearn ) の A living God である。
 現在、富山大学『ヘルン文庫』の H092.2 の中に『Essays and sketches』= 論文と随筆とし
て保存されている。そこでは " A living God " (生神) となっている。

【参考】 ヘルン文庫は、富山市岩瀬の馬場 はる子女史が旧制富山高校の創設に貢献され
    るとともに南日校長の願いを受入れ、その開校記念に小泉家が所有していたハーン
    の蔵書を買い取って寄贈されたものであ
る。
 原作の中心人物は Gohei となっているが、和歌山県広川町の浜口 梧陵をモデルにした
ものと思われる。彼は 通称、儀兵衛で1820年に当地で生まれ、1885年にアメリカで没して
いる。 従って 正しくはGihei であろうが物語では Gohei あるいは五兵衛 となっている。 
彼は優れた人格と博愛の精神で人を救済・援助したり、事業を行って村民から尊敬されて
いた。

 【参照】 和歌山県[愛育園 ]ホーム ページ [浜口 梧陵伝]
 この原作をもとにして、仲井 常蔵によって『稲むらの火』が作られ、小学校国語読本巻 10
に載せられたのである (1937 - 1946)。  人物名は五兵衛となっている。勿論、防災の教訓
ともされようが、むしろ日本人の心や宗教心を伝えるものとして注目したい。


【参照 】群馬大学・早川 紀夫ホーム ページ
    清水 勲『防災教育と稲むらの火』 歴史地震 1996

U 要約
     前記[愛育園]のなかの [小泉 八雲の 生ける神]と、『稲むらの火』から、生き神の部分を
    中心としてこの物語を要約することにする。

  ○  この浜口 五兵衛の物語は明治よりずっと前に、ある日本の沿岸地方で起こった津波の
    物語である。 村人たちは彼を 「おじいさん」と呼んで親しみ、また尊敬していた。 彼は、
    よく小百姓たちの争いを仲裁したり、利益が得られるように計らったり、また必要な時には
    前貸しもしてやり、彼らの作った米を出来るだけ高値で買ってやったりした。

  ○  彼の大きな藁葺きの家は、入り江を見下ろす高台端に建っていた。
    ある秋の夕暮れ、五兵衛は自分の家の窓から下の村で行われている祭りの準備の様子を
    眺めていた。 その時は、10才になる孫と二人きりであったが、その日は蒸し暑く、空気には
    重ぐるしい熱気が感ぜられた。

  ○  すると間もなく地震が起こったが、それほど強いものではなく揺れはすぐにおさまった。し
    かし浜口の鋭い目は海の方へ向けられ、沖合いの異常に気づいたのである。 すなわち、
    海は不意に暗くなり奇妙な動きをしている。風の向きとは反対の方向に動いてみえるでは
    ないか。
     浜口自身も、これまでにこんなものを見たことがなかった。
しかし彼は子供の頃、おじいさ
    んから聞かされた話をすぐに思い出して、これから何が起ころうとしているのかを理解した。


  ○  「タダ ! 早く ! 大急ぎだ ! 松明に火をつけてもってこい 」。 彼の家の前には何百もの稲むら
    が納屋に運び込まれるばかりになって並んでいたが、彼はそれらに火を次々とつけていった。
     彼は未だ危険を知らない 400人の村人を救うことだけしか頭になかったが、孫は祖父は気
    が狂ったのだとしか考えなかった。 すぐに山寺の修業僧が火の手を見て寺の大鐘を鳴らした。

  ○  「これはただごとではない」。 全ての村人たちが駆け寄ってきて、若い農夫たちは火を消そ
    うとしたが彼はそれを押し止めて海の方を指差した。 「津波だ !! 」と人々は口々に叫んだ。
    巨大なうねりが怒涛のように押し寄せ、山々はとどろき、一面稲光のような白い泡で全ての
    ものが包まれ、自分達の家があった所で荒れ狂う波を見るばかりであった。


   高台では、しばらく話声ひとつ立てずに 皆、押し黙って眼下の惨状をじっと見つめていた。
  ○ 長者であった彼は、すっかり財産をなくしてしまったが、その犠牲によって 400人の命を救っ
    たのである。その後、村人にとっても苦難の日々は長く続いてたが、彼らは決して五兵衛に
    対する恩義を忘れず、ようやく村の再建が成った時、彼を浜口 大明神とよび、五兵衛の御霊
    をまつる小さな神社を建立し、供物を供えてお祈りするのであった。


   彼自身が、このことをどのように考えていたか、それはわからない。 しかし彼は、それからも子
  供や孫たちと一緒に高台の家にずっと住み続け、またその人柄は以前と少しも変わらなかった。
  その神社は今でもそのままに在って、村人たちは何か心配事や困難なことに会うと、その御霊に
  お祈りを捧げるとのことである。

V 小泉 八雲 ( Rafcadiio Hearn ) の略歴
   ○ 1850年 ギリシャのレフカダ島で、イギリス軍軍医を父とし、ギリシャ人を母として生まれる。
     その後、父母離婚。ともにいた父も病没し 7才にして両親を失ない伯母に引き取られる。
   ○ 1869年、19才でアメリカに渡る。ニュー オリンズで出版の編集助手、新聞記者、そして文
     筆活動を始める。
   ○1884年、ニュー オリンズで開催された万国博覧会で日本政府派遣の服部 一三と知り合い、
     1890年日本へやってきた。
   ○ 1890年、島根県・旧制松江中学の英語教員となる。 その後、彼の世話をした小泉節と結婚。
     彼女は士族の娘で教養があり、彼の著作と生活を支えた。
   ○ その後、熊本の旧制高校で教鞭をとったが神戸に移り、英字新聞のジャーナリストとして活
     躍。 日本に帰化して[小泉 八雲]と名を改める。 1896年 東京帝国大学[英語英文学]教授。
   ○ その7年後、早稲田大学教授。1904年 9月、[神国日本]のゲラ読みの途中、狭心症のため
     死去。

  ●主なる著書 ... [仏の畑の落ち穂]、[異国情緒と回顧]、[霊の日本]、[影]、[怪談]、[耳なし芳一]

   【参照】 前記[ヘルン文庫]から抜粋引用。なお、 ハーンは生徒から[ヘルン先生]と呼ばれてい
       たらしく、また彼もこの読み方が気にいっていたようなので、それらから、[ヘルン文庫]と
       された。

  【註】 彼の遺作[神国日本]に関連して、最近、首相のいわゆる[神の国]発言が問題になったが、
     佐伯彰一さんが、それを擁護する論評をされ、そのなかで、ハーンの[神国日本]を引用され
     た。 それに対してハーンを冒すものであるとの非難があったが、しかし佐伯さんの論評の
     真意をとれば、それは当たらないように思われる。

  付記 NHKは浜口 梧陵について、2005年(平成17年)1月12日、「そのとき歴史は動いた」でその
     功績を称え、97%の村民が助かったことや私財を投げ打って巨大な堤防を築いたことなどを
     放映された。