杉田 荘治 |
[ ポーツマス条約]と聞いても、若い世代の人たちは、ほとんど関心をしめさないが、年配の人た
ちの多くは、ある種の感慨を覚えるであろう。
その [ポーツマス条約] とは、明治 38年(1905)9月、わが国とロシア帝国との間に結ばれた講和
条約であり、その締結された場所がアメリカ (U.S.A.) ボストン の北方にあるポーツマス (メィーン
州)であったからである。 この条約については、次のような評価がなされている。
○ 東洋の小国・黄色人種の日本が、ヨーロッパの大国・白色人種のロシア〔帝国〕を破って、世界
中を驚かせた戦争の講和条約である。
ところでアメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトが斡旋し、条約締結に大きく貢献した。 しかし、
彼にはいずれ日本は、アメリカをも脅かす軍事大国になるであろうという懸念もあった。
○ わが国の全権・小村 寿太郎 〔外務大臣〕一行は大変、苦労して、ようやく締結にこぎつけたが、
多くの国民は[屈辱外交]として、これを非難し、[日比谷公園焼き討ち事件]などが、各地で起っ
た。 [註] ・賠償金 40億円 の断念。 南樺太(北緯 50度以南)の割譲などを得たのみである
ことに憤慨して。
○ 全権団のみならず、当時の政府・軍部首脳が、開戦前から条約締結に至るまで、戦局や世界の
情勢を把握し、慎重に事を運び大局について誤らなかった。
○ その後、列強の利害が鋭く対立し、武力と威喝によって解決するという世界の舞台に、最後に
登場したわが国には焦りもあったが、政府・軍部・国民は慢心し、次第次第に進むべき道を誤っ
ていった。 またその後、再び、外務大臣になり、[小村外交]を推し進めた功績は大きいが、同
時に、いかなる人物ついても特に英雄視するこ とには慎重でなければならない、という教訓も
残していよう。
○ 日露戦争
・ 明治 37年(1904) 2月4日. 御前会議で開戦決定、2月10日 宣戦布告
・ 明治 38 年(1905) 9月5日. 午後 3 : 47 講和条約調印
・ わが国の戦死者 4万6423名、戦傷者 約 16万人
・ 軍費 ー 陸軍, 約 13 億円、 海軍、約 2 億 4000万円。その他合わせて合計 19億 8.400万円
[註] 開戦前のわが国の年間予算規模は約 3億円であるといわれた。 約 7億円の外債をロン
ドン、ニョーヨーク、ベルリンで調達した。
インターネット上で見られるポーツマス条約
まず英文では、どんなものがあるのだろうか。T. 英文の資料・記事
Infoseek で検索すると、次のような資料が見つかる。
1. アメリカ国務省関係分
東南アジア・太平洋地域担当局の日本担当部局が、インターネット上に各資料を提供している。
U.S. and Japan : http://www.state.gov/www/
1. Fact Sheet : History of Japan
1904 - 05 戦争。ポーツマス条約の結果、日本に満州 (Manchuria)と南樺太(southern Sakhalin)
がロシアの敗北によって与えられ、また韓国 (Korea)における日本の管理権 (free hand) が与え
られた。このことは、1910年(明治 43) 日英同盟 (Anglo-Japanese alliance) に公式的に付加
されている。
2. Fact Sheet : Russio - Japanese Relations では条約の全文を英文で紹介している。
それはPeter E. Randall Publisher 1985 によるものであるが、さらにその出典は、Sydney Tyler,
The Japan_Russia War, Harrisburg, The Minter Company, 1905 である。 すなわち、
前文 ---- 日本国天皇とロシア皇帝は、平和を強く希求し、この条約の締結に至ったこと。
小村 寿太郎などと Sergius ウィッテなどが全権であること。
第1条 -- ロシア は、日本が韓国における最高の(paramount) 政治的・軍事的・経済的利益を
有することを認める。
第2条 -- ロシアは遼東半島 (Liaotung Peninsula)を除いて、満州を中国 (China)に返す。
第5条 -- ロシアは、日本が中国の同意を得て、旅順 (Port Arthur), 大連 (Tailen)を租借
(The lease)することを認める。
第6条 -- ロシアは、中国政府の同意を得て、長春 (Chang -chunfun)以南の鉄道、付属利権
を日本に譲渡する。
第9条 -- ロシアは、日本に南樺太 (Saghalin)と隣接するすべての島を割譲する。その境界
線は北緯50度とする。 また両国ともに樺太には軍事施設は設けないものとする。
第11条 -- ロシアは、日本にオーツク (Okhotsk)と ベーリング海 (Bering Seas) の漁業権を
認める。
その他 -- 捕虜の交換、商業に関すること、50日以内に批准されるべきこと、また、英語とフ
ランス語で書かれた文書にも両国全権が署名したこと。疑義が生じた場合はフラ
スン語によることなどが盛り込まれた。 全文 15条と付属文書。 1905年9月5日.
次に、Yahooで検索してみると次のような資料が見つかる。
3. Infoplease のホームページから・Encyclopedia
http://www.infoplease.com/ce6/history/A0839843.html
1905年、ロシアと日本の戦争は終わり、9月 5日、ニューハンプシャイアー州の ポーツマス海軍
基地で署名が行われた。それは、この春、ロシアは敗北し、日本は財政的に困難になったからで
ある・それ故に両国は平和を望み、ドイツ、アメリカ、イギリスも彼らを和解させるように手助けした
からである。
・ これに先立ち、アメリカとイギリスは、条約の締結が円滑にいくように、日本に譲歩を厳しく要求し
ていた。セオドア・ルーズベルトは、日本は満州を広く各国に開放する政策 (Open Door policy)
をとり、また中国に返すように求めた。
・ しかしまた、1905年 7月に協定した タフト・桂協定に基づき、アメリカがフィリピンで自由に権利を
行使するかわりに日本が韓国 (Korea)を支配する(dominance)ことに同意する。
・ またイギリスも、東アジア全域をカバーする日英同盟があり、そのかわりに日本が韓国に対して、
自由に権利を行使する (free hand)ことを認める。
・ またロシアは、この条約により、韓国の独立とその日本の永久的な政治的、軍事的、経済的な利
益を認めざるを得ない。 ロシアはまた、再び満州 (Manchuria) を中国 (China)の統治下に戻す
ことに同意する。 外国の軍隊は撤退しなければならない。
・ ロシアによって建設された南満州の鉄道は無償で日本に譲渡される。
・ 紛争した遼東半島 (Liaoning)、大連 (port of Dalian)と旅順(port of Lushun) は南樺太と同様に
日本に戻される。
・ 日本はロシアの極東に隣接した海域での漁業権を得る。
以上のように、この記事は述べてきて、最後に,このようにロシアの極東における力は一時的に下
降し、日本の出現はその地域における最強の力となった、と結んでいる。 当時の列強各国の動き
を客観的にとらえた貴重な資料といえよう。
【註】 Open Door policy : 門戸開放政策
一定の地域で、商業、産業に関する権利をすべての国に平等に開放することを意味する。
アヘン戦争(Opiun War :1839 - 42)後、いわれてきたが、今回、アメリカが中国について主張し
始めた。 1885年の ゛ベルリン会議では、コンゴの問題について主張した。
地元・ポーツマス市の資料は、と゛うなっているか
ポーツマス市の資料
結論からいうと、[ポーツマス条約]に関する資料はインターネット上では全くない。
○ 市の広報誌・City of Portsmouth のなかの History にもなく、Portsmouth Historical Sites
にも、博物館、公園、教会、旧州知事公館などが書かれているが、探す目的のものはない。
また観光ルートのなかにも含まれていなかった。
○ ところで私はポーツマス市内を半日であるが旅行したことがある。 それは近くにあるNew
England 大学のJean-Lous Nickmair助教授が来日されたとき、名古屋市内を案内したこと
があったが、その返礼の意味もあってか、氏の好意で1993年8月に二晩、自宅に泊めていた
だき、同大学を参観するとともに半日旅行として近くにあるポーツマス市内の観光もできたか
らである。 そのさい、私はポーツマス条約に関する建物がないかと尋ねたが見つからなかっ
た。
○ そこで、市のMail Comments を利用して、「確かに貴地で、1905年、貴国大統領が斡旋して
日露の講和条約が結ばれた筈である」旨を書いて尋ねたところ、次のような返事がきた。
エキスパートの返信
ポーツマス条約に関連のある建物はありません。両国の討議と署名はポーツマス海軍造
船所で行われ、その会議場は今も残っており、一つの部屋は講和関係のものです。両国
の代表団は New Castleにある ホテルWentworthに留まりました。 そのホテルは、ここ
10年間、閉鎖されたままでありますが、改装し再開するとのプランも出ています。- Peter
Randall
【註】 Peter Randall は、“そこには勝利者はない”: There Are No Victors Here の著者。
なおこれは、後述の大平 哲[ひょん] にも出ている。
それでは和文の資料・記事をみてみよう。 しかし残念なことには、それらは旅行記や簡単なU 和文の資料・記事
歴史、伝記・記念館の類のものが大部分であった。
1. 旅行記
○ 大平 哲 『ひよん』 http://www01.u-page.so-net or.jp/jb3/hyon/usa/journey5.htm/
ポーツマス市の本屋で郷土史を探し、Peter E. Randall の本・Local Perspective on the
Treaty of Potts-mouth を見つけて読んだことや、当地では年に一度、記念行事が開かれ
るが、条約について知っている人少ないとのこと。また小村 寿太郎などの講和使節団が
着たことを伝え聞いて、はるばる遠くから、1ドル紙幣を握り締めて祖国に献金すべく駆け
つけた日系移民のエピソードなどを紹介している。
○ 吉田 隆志 『インターネット写真検索』 プランズ http://www.plans-jp.com/
ポーツマス市で、ようやく一冊の本 (前述の本と同じ)と使節団が泊まったホテルの跡を見つけ
たことが書かれた写真集である。
2. 歴史の記述
○ 試される大地・ 北海道の『歴史的経緯』 国境とりきめの歴史 http://www.pref.hokkaido.
jp/soumu/ポーツマス条約が締結され、北緯 50度以南の南樺太が日本の領土になりまし
た、との短い記事と地図。
○ にうねえむ大学・ 『北方領土論』 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1308/
ルーズベルトが仲介したことやロシアが、わが国の賠償金の要求を受け入れず、また南
樺太の領有、漁業権譲渡のことなどの簡潔な記事。
3. 伝記・記念館
○ 国際交流センター・小村記念館 (日南市) http//www.miyazaki-nw.or.jp/tunatori/
nichina/komura/
平成 5年 1月、オープン。 二度にわたって外務大臣を努めた小村侯の功績、遺品、ビデ
オ、講和条約調印室のテーブル・椅子の復元などの紹介。
○ 日南市ホームページ 小村 寿太郎 http://www.m-surf.or.jp/~nichinan/
前述と同様に、小村 寿太郎の略歴、功績などの紹介。
○ 『夢追い人 : 朝河 貫一』 福島県ホームページ
http://www.pref.fukushima.jp/list/ --- http://www.library. pref.fukushima.jp/
福島県が生んだ世界的な歴史家・国際政治学者であった朝河 貫一博士は、長期にわ
たるアメリカ在住の日本人として、母国がたどった日露戦争から第二次世界大戦に至る
まで、戦争を冷静に観察し国内外に貢献した業績を称え、かなり詳細にその足跡を紹介
している。【註】 中日新聞も平成 10年 12. 13 朝刊で 「ポーツマスから消された男」 のタ
イトルで、ホテル・ウェストワース の写真などとともに、朝河 貫一の歩みを紹介した。
○ 高平 小五郎 ふるさとの思い出写真集 http://www.kurikoma.or.jp/~imamuraa/
midokoro/turiyama/全権委員の一人。 一関出身。写真などの紹介。
追記 ポッキーのボストン案内にある『ポーツマス講和条約』は大変参考になる。
あとがきこれまで見てきたように、和文の資料・記事は旅行記、簡単な歴史、伝記などが大部分で
「ポーツマス条約」 を多面的・客観的にとらえようとする点では、英文のそれらに劣る。
学校で現代史を教える人たちは、もっと「ポーツマス条約」 関係の英文記事・資料を調べて、
学生・生徒に教えてほしい。 “歴史に学ぶ” ことは、その時代の世界各国の利害・動向やわ
が国の立場などを多面的に冷静に分析することである。
“白髪 三千丈” 式の誇張された被害論、加害論、また恫喝の資料にせんと意図された歴
史観に幻惑されてはならない。 若い世代に“わが国を愛する気持ちが薄い” と嘆く前に、こ
のことについて配慮する必要があろう。。
幸いなことに、インターネット上には、そのような英文記事や資料が提供されている。
1999年(平成11年)3月末 記 元公立・私立高校長 教育評論家
追記1 (2002年9月) 追憶のベル
最近のことであるが、以前ポーツマスに住んだことがあり、今でも時々同市を訪づれること
があるというNatalie Houdeさんというアメリカ人からら、次ぎのようなメールが来た。すなわち、
「日本とロシアとの間に結ばれたポーツマス条約の第97回の記念日に当たる、9月5日(木)
の署名の時刻である午後3時47分に合わせて、ポーツマス市と海軍造船所で一分間、ベル
が鳴らされました。また同時に笛も吹かれ、多くの行動が停止しました」。
「Wentworth ホテルは、ひどい状態になっていますが、あるグループが寄付金を募ってこ
れを修復し、歴史的な場所を維持しようとしています」、「あまり多くの人たちではないにせ
よ、アメリカはこの条約に敬意を払い、今後も記憶し続けていくでしょう」と書かれていた。
さらにその数日後、[そのベルを鳴らすことは今年に限ったことではなく、毎年の行事です。
2005年の100周年は盛大に祝われることになるでしょう」と返信が来た。
このように、今やわが国ではほとんど関心をもたれないポーツマス条約について、彼ら関係者
が善意の行動を続けられていることに感謝し、併せてこのことを知らせてくれたHoudeさんに
心からお礼をいいます。
追記2 (2004年2月15日) 国立公文書館 アジア資料センター 日露戦争関係資料
今年は開戦100周年、来年は講和100周年を迎えるがためか、最近、日露戦争に関する話
題が少しづつ増えてきているように思われる。 嬉しいことである。 ついては上記のアジア資
料センターの資料には宣戦詔書、講和に関する詔書、条約条文などが載せられているので参
照されるとよい。
なお、私は十数年前、外交公文書館を訪れ、特別許可を得て、日露戦争関係の資料を見せ
てもらった。 小村全権が日本政府に対して、領土のこと、賠償金のことなどその交渉の様子
を電文で詳しく報告して政府からの訓令を要請している様子がよくわかり、全権団の苦労が偲
ばれた。