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【註】 赤尾 純蔵氏は元陸軍中佐。勲三等 ・ 功四級を受章され滋賀県大津市赤尾町にお住まいである。
部下に教わった真の勇気
昭和十五年頃、私は中国の南京市の南方約 60kmの漂水県城とその周辺の治安維持の責任
者として、歩兵一ケ大隊[ 人員約 1000人]を指揮して職務の遂行に努めていた。
漂水には、県城として昔から極めて堅固な城壁があり、東西南北の四ケ所に城門があった。
東
門と南門が敵に近く、地形上も攻め易かったので、いつも敵の攻撃の目標となっていた。
主題 ー 嗚呼、真の日本男児 伊藤了三中尉を思いて
私は、毎日夕暮れに、城壁の上から敵地を眺めて敵情を判断し応戦の準備をしていた。
敵が迫撃砲を場内に打ち込めば、間髪を入れず、わが大隊砲で敵を反撃する毎夜が続いた。
敵襲は短いときで約一時間、長いときには数時間も迫撃砲や機関銃弾を城内に打ち込んでき
た。
五月二十七日は、わが海軍がロシヤのバルチック艦隊を対馬海峡に迎え撃ち、これを撃滅
した記念すべき日であったが、 この夜も午後九時ごろ、いつものとおり敵は漂水城外に近づき、
迫撃砲や機関銃の乱射を始めた。 今日は、わが海軍記念日であるから敵さんに休んでほし
いと言いたい日であった。 ところが、この夜の敵襲は、敵が私の気持ちを察してくれたのか、
ほんの数分で終わった。 東郷元帥のおかげとも思った。
この夜の十時少し前、突然、東門を 「オーイ、オーイ 開けてくれ !」 と日本語で開門を求め
る声がした。“ ハテ おかしい” 敵が日本語を使うはずがないが、不思議に思い、私は「
だれ
か !」 と鋭く怒鳴った。私の声を聞いて門の外から声がした。 「伊藤中尉です。 開けてくださ
い」。
私は驚いて門を開けた。 見ると、伊藤中尉がいつものとおり、日本刀を背に負い奥軍曹、平
林軍曹以下第一中隊の選抜者約十名が、約三十名の敵を捕らまえて、縄で縛り、門内へ入っ
てきた。 私は驚いて 「伊藤中尉 ! どうしたのか」と尋ねると、伊藤中尉は、「あまり毎夜、敵が
来てうるさいので城外で敵を待ち伏せ、敵の司令部を急襲して、こ奴らを捕らえてきました」と
報告した。
私は心の中で、伊藤中尉以下の勇士を実に大胆不敵見事な振る舞いであると感服したので
あるが、私に無断で、城外へ出陣したことを褒めるわけにもいかず、私は言った。 「そんなむ
ちゃをすれば危ないではないか、もし死んだらどうする」と一応たしなめた。
伊藤中尉は、いとも神妙に、「どうもすみません。 以後注意します」と答えた。 私は伊藤中尉
以下の勇気ある行動を褒めたい気持ちでいっぱいであったが、もしこのような勇士を戦死させ
るようなことがあっては大変と思い、心の中で涙しつつ一応注意を与えた。
攻める敵が何十人か分からない暗夜わずか十人余りの兵力で、銃剣と日本刀だけを頼りに、
大敵を恐れず待ち伏せし、敵の幹部三十人を生け捕りにする勇気ある行動は、だれにでもで
きることではない。 『真の勇気』とはこのことであろうと思った。 私は上級者として部下に勇気
を教えるよりも部下将兵から真の日本軍人の勇気を教えられたのであった。
このことがあって以来、毎夜続いた漂水城への敵襲はピタッと止まった。 敵も日本軍人の勇猛
に恐れをなしたのであろうと思った。
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この数日後、私の手元へ一通の手紙が届いた。 手紙は伊藤中尉のお母さまからであった。
巻紙に達筆で書かれた丁寧なお手紙であった。 私がその手紙を拝見すると、[先日、伊藤中
尉のご尊父が逝去せられ、葬儀、初七日などの追悼の諸儀は滞りなく終わったこと、これを伊
藤中尉にお母さんから直接知らせると、中尉が悲しんで、お国のために尽くす誠心が、もし鈍
るようなことがあってはいけないので、中隊長である私にだけ知らせるから、折りを見て了三
〔伊藤中尉の名〕に父の死を悲しまないように、また留守宅のことを心配しないように話してほ
しい] という内容であった。
私は、どうしょうかと、しばらく考えたが、思い切って伊藤中尉に、ご尊父の逝去を知らせよう
と思い、伊藤中尉を呼んだ。 私は中尉に、ご尊父の逝去とお悔やみの言葉を述べ、ご尊母の
お便りの気持ちに従い悲しまないよう中尉を慰めた。 中尉は、「私にその手紙を貸してほしい」
と言った。 私は中尉に、お母さんの手紙を渡した。 中尉は手紙を受け取ると、黙って隣の自室
へ入った。 それから二 ー三〇分過ぎても中尉から何の反応もないので、私は中尉の部屋の扉
を少し開いて、そっとのぞいた。
中尉は私がのぞいていることも知らずに、野戦の粗末な机の上に、ご尊父のお写真と、先に
南陵の戦いで戦死されたアイヌの海馬沢上等兵の遺骨を並べ、中尉が海馬沢のために手に
入れたと思われるお線香に火をつけて、両掌を合わせて、お二人のご冥福を懸命にお祈りし
ていた。私は[ ああ、かわいそうに、もう少し隠しておけば] と思いつつ中尉の姿を眺めている
と突然、中尉が[ ワァッ!]と大声で泣き出され、机の上に顔を伏せた。 その泣き声がいつやむ
とも分からないありさまであった。 私もぐっと胸が詰まりもらい泣きした。
中尉は、日本陸軍の予備役の将校として、戦場に臨むや常に率先陣頭に立って、勇猛果敢
に敵と戦い、初年兵教官として、初年兵の教育に従えば、深い温情と誠意をもって、これを指
導し、中国の人々と接しては、礼儀を失わず、中国の人々をいたわり、特にアイヌの海馬沢二
等兵〔戦死後、上等兵〕に対しては、文字まで教え、上等兵が戦死されれば、その骨を白布に
包んで胸に抱きつつ戦いを続け、漂水への敵襲に対しては、身の危険を物ともせず、城外で
敵を待ち伏せして敵の幹部数十人を生け捕りにするなど、知、仁、勇の三徳のほか、忠孝の
至誠にあふれた真の軍神と申し上げてもよい立派な青年将校であった。
しかし、惜しくも、中尉は再び日本の土を踏むことなく、その五年後の昭和二十年二月十七
日、南方戦場のビルマでインパール作戦の折、前途有為な尊い生命を国に捧げられたので
ある。
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私は先日、伊藤中尉と特に親しかった藤川軍曹ほか約十名の戦友と共に、京都市内の伊藤
中尉のお宅を訪ね墓参した。 ご家族の話によると、中尉の令兄は昭和十九年、硫黄島で戦死
され、令兄のご婦人はご懐妊であったが、令兄はお子様の姿を見ることなく、二人の兄弟が共
に戦死されたと承り涙を禁じ得なかった次第である。
令兄のお子様は今、立派な社会人としてお元気であるが、中尉のご尊母は二人の息子さまを
失われた悲しみを続けつつ、数年前ご逝去になったと承った。 国にためとはいえ誠に気の毒な
ご一家と申し上げるほかない。
中尉は京都大学の法学部を卒業後、国民の義務として徴兵検査により入営せられ、選ばれ
て幹部候補生となり、豊橋予備士官学校卒業後、歩兵第五十一連隊第一中隊に配属された
人であった。 もちろん未婚の青年であった。忌まわしい犯罪が多発し、暗い世相の現在、伊藤
中尉のような立派な青年が数多く輩出して、世の中を明るくしてほしいと思う次第である。
なお、一言付け加えると、戦死された人はもちろん、幸い生き残った人々も、当時の日本軍人
は皆立派な人々が多かったということである。 特に国民の義務として徴兵検査に合格され、入
営された人々の中に立派な人々が多かったということである。 このような立派な軍人でなり立っ
ていた日本陸軍がなぜ消えてしまったのかと思うと五十数年後の今なお断腸の思いが切々と
胸を打つ。
..1999年(平成 11) 3月に寄稿された。
【後記】赤尾 純蔵氏は平成13年(2001) 1月末、逝去された。謹んでご冥福をお祈りします。