『リトル・リトル・クトゥルー』没作品 「宇宙方程式」 御於紗馬
「我がイカシた別荘へようこそ!」と、彼は拘束衣にガンガラ締められたまま無邪気に微笑んだ。
「君が訪ねて来てくれて本当に嬉しいよ。映画を幾つか観逃したのが心残りだが、仕事の方は全く快調。後もう一息さ」 元は純白だったであろう隔離病棟の床と壁は彼の言う『仕事』、奇怪な図版や式が刻み込まれ恰も秘教の儀式の場の如き相を成していた。私は彼の視線の先を伺う気には成れず、異端となった同僚の依然の姿を思い浮かべた。 彼は非常なセンスを持った数学者だった。彼の奮闘で幾つもの難問が人知の領分へ導かれた。神憑りとも呼べる直感はゴルディアスの結び目に対するシーザーの利剣とも称されたものだった。 そんな彼が等式の角度や向きに固執し始めたのはいつの日だったろうか。机を削り、壁面を穿ち、己の血で色付け始めたのはいつの頃からだったろうか。 「今度のは凄いよ。完全に世界の、いや宇宙の過去から未来に渡る全てを公式として顕すんだ。仏教の曼陀羅なんか僕の今の仕事の数百分の一にも至らないさ」 既に三人の看護士がこの部屋に居過ぎた為に精神を病んだらしい。壁から目を逸らしていても毛穴から毒気が進入し、脳ばかりか魂さえも腐食させるような禍々しさを感じた。 「でも、本当に君と話せて良かったよ。やっと完成させることが出来る」 彼はそういうと、突然唇から血を吹き出した。咥内を噛み切ったのだ。冒涜的な印が床に描かれたその瞬間、不動のはずの病棟が大きく揺れた。激しい苦悶に叫び嘆いたかの如き振動だった。私は気を失った。 彼は姿を消した。壁と床は何故か元の無地に戻っていたが、天井には彼の苦悶と狂気に歪む表情が残されていた。そして如何なる手段を講じても、消すことは適わなかった。おそらくは恐怖こそが、絶対の真実なるが故に。 |