1回目 石巻 4/8 金 出発準備
先週に続き今週も名古屋から被災地−石巻へボラ隊が出向きます。
今回はトラック2台+ボランティア40名も被災地へ行って活動。やっと俺にも何かできる。
中区東別院にあるボラセン事務所にて先回と同様に荷物積みから。
その荷物は前回と内容は大きく変わっており、ラジオやらガスコンロやら衣類やら、生活の質を上げる為のものをなるべく沢山積んでゆきます。
日が暮れる前に積み終わり、学校が終わってから、仕事が終わってから集まるボランティアを待って出陣式が執り行われ、バスの旅に。
バス会社さんから100個ほどのおにぎりの差し入れが有り、それが皆の夕飯。ご馳走様です。
そうそう、今回、TV局が同行しました。
1つは
CBC。
4/11PM5時の”イッポウ”で放送される様です。
もう一つは
NHK=中学生日記。
22日の特番で放送されるらしい。
車隊は名古屋高速−MAGロード−東名−首都高−東北道と乗り継いで、福島県では原発から50Kmの所でトイレ休憩し、いよいよ宮城県。
4/9 土 被災地 宮城県石巻市
夜明け頃。東北道が一部閉鎖されているので仙台南ICから仙台南部道路で仙台東部道へ向かうと、海からは3Km近く離れているというのに、そこにはもう津波の爪痕。改めて津波の威力を思い知る。
だが、これはまだ序章すら始まっていないのだと後に知ることとなる。
この仙台東部道路は地震の被害をかなり受けていて、川とかがっしりした立体交差のところ意外は5cmほど沈み込んでおり、車列は40Kmで走行。これもよく1月で復旧させたものだ。
終点から国道に乗り換えて更に北上。道の左右はがれきの山、電気はまだ来ていないのかファミレスも締まったまま。
そんなところにこんな車を発見。
暖かいご飯を食べられるのは、それだけで嬉しいからね。
車が進んでゆくと、道路の両側は所によってはもう街とはいえない。
もとは何が有ったのか、どこから流れてきたのか? 同じような景色が延々と続いている。心が重くなる。
そして「到着しました」の声で、校舎と一緒に目に入ってきた景色は・・・・絶句。寺とお墓が・・・・。
裏手は山になっているので、津波はここに溜まったんだろう。どこからどれだけ流されてきたのか判らない車・車・車。。
・・・後ほどこのお墓に先祖が眠っているというご年輩の男性とお話をした。
「
先祖はみんなあの下にいるが、俺はもうなにもする気が起きね。お釈迦さまも神様もなんの役にも立たね」
返す言葉が無かった。
我らは10時ちょっと前に到着したので、休む間もなく荷物を下ろす。
先週運び込み今日まで残っていた荷物や、他から届いた引き取り手の無かった物資を片づけて、
トラック2杯分=1000箱の荷物を体育館に並べる。女性用下着は段ボールで造った仕切の中。
その間にも、この話を知っている方々がどんどん集まってくる。「すみません、11時からなのでもう少しお待ち下さい」と誤りながら荷物を並べ、10:50、物資分配開始。
「あれは無いか?」「これはどこだ?」「ウェスト90のズボンは無いか?」「女の子の服はないか?」
どんどん質問され、どんどん物資は消え、1時間でほぼ空に
どれだけ必要なものが無かったのか?が、実感される。
電気もガスも水道も来ていない、配給されるのは飲料水と僅かばかりの食料だけ。支援物資は倉庫に溢れていても、人が足りない、車が足りない、ガソリンが無い。
GNPトップ10に入る先進国で、発生から1ヶ月も立つのにこれか・・・。
自衛隊も総力戦を展開(この車両は高射砲隊所属)しているのだが、装備が足りない。
そこを埋めている自発的な支援者達が、温かさをこの避難所にもたらしている。
自転車趣味の方々が暖かいコーヒーを、名古屋在住パキスタンの方が震災3日目からカレーを。
あちこちの避難所に、NPOでもなんでもない、そんな人たちが入って現地を助けているんだろうな。俺ももっと何かやらなきゃ!
少し時間が出来たので、校舎を廻ってみる。体育館の演壇には希望を示す文字。
だが、これ意外は衝撃的な景色ばかり・・・
止まった時計と水面の跡
中からの衝撃?で壊れた窓
どんな圧力が掛かれば曲がるんだ?
二宮像は台座から流され・・
学校前の道路では、車輌の撤去が行われていたが
一本裏道へ入ると、家が流されて出きた空き地に、どこかの家を解体した瓦礫がうず高く積まれ
津波にコンクリートまで壊されたビルが有り
流されてきた車は密集し、引き裂かれ
市の行う無料撤去に同意するサインが、ひっくり返った車に貼られていた。悲しい反面、持ち主が生き残った証。
これらを撤去するのにあと何ヶ月掛かるんだろう? 夏前に済まさないと大変な事になる。
午後の仕事は、校庭のゴミ掃除。事前情報では被災家屋のドロ出しを行うってことだったんだが、その仕事は行ける範囲には無かったらしい。
木片やら瓦やら、散らばっているものを土嚢袋に詰め込んでゆく。
ところがよく地面を観察すると、なにか地面の上に黒い層ができている。
スコップで力業でめくって見ると、なんと重油とドロと海水が混ざって固まったものが一面に厚さ5cmくらい堆積している。
これを根気よく掘り返してゆくと、生活の跡が出てくる・・・。写真、化粧品の瓶、本、通帳が入った鞄、エンゲージリング・・・・
まちがいなく人が住んでいたんだ・・・・・・・・・・・
一角にはブレーカーが付いたままの壁も。
3相のブレーカーだから、工場か猟師小屋かが丸ごと流されてきたんだ。さっき有ったアルミのドアはこいつのか。
ふ、と横を見ると、なにか布の様なものがある。広げてみると、なんとそれは『
大漁旗』!
これはゴミにしちゃいけない!と、地元の方に聞いてみると、やはりこの町のものの様。
ドロを払って、倒れていたサッカーゴールに縛りつける。
第38栄久丸、船長さんが生きながらえていますように。
校庭の掃除はどれだけやっても全然終わらない。暗くなる前に持ち帰る荷物をトラックに積んでやっと昼ご飯。
パキスタンの方が造ってくれたカレー。
途中でカロリーメイトは補給していたんだけど、やっぱり腹にたまるものは違う! 生き返ったw
暗く成る頃、隊は出発。目指すはNPOの本拠地となっている大学キャンパス。
だが、そこへ行く途中「我々に見せたいものが有る」と、バスは道を迂回し、海岸方面へ。
橋を渡るころに目に飛び込んできたそれは・・・・・・・
かつての住宅街が有ったところに延々と広がる、何もない荒れ地・・・・ 全てを海は持ち去ってしまった。
火は全てを焼き尽くしてしまった・・・
人は海のそばには住んではいけないのか? それを覚悟で住まねばならないのか? 何か手は無いのか? 日本の宿命か? 心が暗くなる
そんな思いの中でたどり着いたNPOの連絡会議。
あちこちの色々な団体が来ていて、それぞれに出来ることをやっているようだ。
被災者からの要望が有れば自分が指揮下に入るかもしれなかった「家屋お掃除隊=マッドバスターズ」もそこにいた。今日は1件のドロ出しと1件のトイレ穴掘りをしたそうだ。
会議の途中までオブザーバー参加し、帰名の途に。
高速SAで遅めのご飯を食べ、寝たような寝なかったような道中を13時間、日曜8時に東別院ボラセンに到着。
積んできた「ゴミ」を下ろし、ミーティングして解散。今回参加した初顔合わせだった皆さんともう一度ここで会えたらいいな。