アインシュタインの書簡

所蔵by門司港レトロ アインシュタイン記念館

日本旅行雑感

私はこの数年、たびたび世界中を旅行して回った。そもそも学者らしからぬ処かもしれぬ。私のような人間は本来、静かに自分の部屋に引きこもり、勉強をすべきなのであろう。ただ、以前の旅行に関するならば常になにがかの言い訳が立ち、多少の疼きは覚える私の良心を十分に宥めることができたのであった。山本氏より日本へ招かれた時、私は数箇月にも及ぶに違いないこの大旅行への決心を直ちに固めた。だがそれは、日本をこの目で見る機会をみすみす逃すならば、自らを決して許せぬであろうと云う、唯一の理由からの決心であった。
 ベルリンに暮らして此方、私が日本に招かれたと知れた時程、人に心底羨ましがられたことはない。私達にとって神秘の薄衣に覆われた国と云えば日本に比すべきはなかったからである。周囲にも日本人は多少見かける。ぽつりと一人、熱心に学問に励み、優しく微笑む姿を、垣の張り巡らしたそのほほえみの数に、如何なる感情が隠されているのか、誰も解き明かすことができぬ。だが、そこに我々とは違う心の一つの様が在ることを我々は知っている。それは我々が触れることの多い日本製の道具類の形に表れておったり、時折流行る日本の影響を受けた文学にも認められるのである。
 日本について私の頭にある全知識を以てしても、明確な像を描き出すことは不可能であった。北野丸が日本の海峡を幾つか抜け、無数の可愛らしい緑の小島が朝日に輝くのを見た時、私の好奇心は最早押さえ切れぬまでになっていた。輝くと云えば、就中船上の日本人を船員皆の表情であった。朝餉の前に姿を人目に晒す等決してなかった小柄な婦人等の中には、早朝の強風も知らぬげに、早や6時には幸せに酔うた様に甲板をそわそわと歩き回る者もおた。一刻も早く故国の地を目にしたい情であったろう。人々の心が深く揺り動かされている様子に気付き、私は感動した。日本人は外国語に堪能、且つ外国に関わる全ての事柄に大いに好奇心を有するも、外国に在っては最も異質感を抱いている。何故か。
私が日本に着いて、未だ2週間を経たのみである。而も多くは依然として到着の当日同様神秘めいたままであるとは云え、些か理解する術を心得たとは云えよう。就中、日本には欧米人に対する気後れが見られる点である。我が国に於ける教育制度は、個としての存在をかけた戦いを、能う限り有利な条件下で、優勢に展開する能力の付与を唯一の目的としている。殊に、都会に於いては個人主義が徹底し、全力を挙げた競争が処構わず認められ、人はより多くの奢侈、享楽を求め熱に浮かされたかの如く働いている。家族の絆は緩み、古の芸術や徳は日常に然したる影響を与えていない。個々人の孤立は生存競争のもたらす当然の帰結と見倣され、無意識の帰属感を分け合う集団に在ってこそ備わる。彼の明るい無邪気さを人間から奪い去る。合理性を旨とする教育、これは我が国の如き状況下の生活実利に取り不可欠ではあろうが、個々人のこうした生活態度を一層とげとげしいものにし、また一人の人間の孤独をより強く意識に刻みつけるのである。
 日本では全く異なっている。ここでは個人が自力に依存する度合いが、欧米に比し遙かに低い。法律が然程後ろ盾をしている訳ではないのだが、家族の紐帯は我が国に比べ非常に密である。だが、世間の考え方が、我が国より強い支配力を持ち、家族制度が揺らぐことのない様配慮している。日本人が教育を通して会得している徳、あるいは多くの場合、生まれながらにして十分備わっている心映えの美しさは、世間の有形無形の評判という圧力の為に更に完璧なものとなる。広い意味での家族の繋がりは、物質面から見れば相互扶助により成立しており、これは住居、食物に関する個々人の要求が然程高くないことから、実行し易いものとなる。一般にヨーロッパの家庭に他人を泊めれば、家の秩序が微妙に阻害されること必定である。従って、経済的に余裕が有るとしても、ヨーロッパ人は妻や子供しか扶養できないことが多い。婦人も生業に関わらねばならぬ場合も多い。上流階級の婦人は子供の躾を使用人に任せなければならぬ。成長した兄弟姉妹が互いに助け合うこと、ましてや遠い親戚が助け合うことなどは非常に稀である。
 しかしこの国に於いて、個人を勝る互いの緊密な繋がりが我が国より維持し易い理由はもう一つ在る。それは日本独特の習慣で、自己の感情や情熱を外に表さず、どのような事態に在っても冷静で余裕を保つことである。この事実から、多くの精神的に相容れない人物同士であっても、軋轢や紛争を生せずに一つ屋根の下に暮らし得るのである。ヨーロッパ人には不可解に映る日本人の微笑の裏の深い意味が、私にはここに在る様に思う。
 個人の感情表現を押さえる躾が、精神の貧窮や個人そのものの抑圧に繋がるのだろうか。私はそうは思わぬ。この国民特有の繊細な感情、他人の気持ちを推し量る感情はヨーロッパ人より厚い様に見受けるが。
その事がこうした伝統が培われるに際して積極的に作用しているに相違ない。無遠慮な言葉に日本人が傷つく点では、ヨーロッパ人に劣るものではない。しかしそこで、ヨーロッパ人は直ちに反撃に転じ、目には目をの原則から十分に報復する。日本人は傷つきながら引き下がり、涙を流すのである。日本人が喧嘩腰の議論ができないのは、本音を隠しておるのであり誠実でないと、どれだけ批判されてきたことだろうか。
 私の様なよそ者に取り、日本人の魂の深みまで分け入ることは容易でない。至る所で正装に身を包んだ人々の最大の注目を浴び、歓迎される私の耳に届く言葉は、魂の深みから静かに流れ出し、多くを語ると云うよりは、寧ろ注意深く整えられた言葉である。だが、人々との直の触れ合いで得られぬことを、芸術の力が補ってくれる。日本では他の国とは比較にならぬ程多様な芸術を享受できるのである。因みに私が「芸術」と云えば、人間の手が不朽のものを紡ぎだす営為金を指している。
 この点では驚き、また称賛する許りである。自然と人間は地上に比類なき統一した様式を生みだすために、溶け合ったかの様である。この国にサンするものは善く愛らしく、明るい。抽象的、形而上学的でなく、常に自然から与えられたものとかなり密接に結びついている。愛らしきものは小さな緑の鳥や丘の在る風景、愛らしきものは木々、丁寧に小さく区切られ、びっしりと作物の植えられた田畑。格別愛らしきものはまた、そうした風景に納まっている小さな家。果ては人々の話し方、動く様、身なり、彼らの使う様々な道具類、それらが皆愛らしい。
日本家屋の緩やかな端正な間仕切りや、いくつもの畳で柔らかに敷き詰められた小部屋の在る様は、殊に好ましい。些細な事共には全て意味と意義が込められている。その上、美しい微笑を頌え、お辞儀をし、座る人々。これら何もかも唯称賛あるのみで、模倣は不可能である。試みても良かろう。しかし、無駄である。お前はよそ者なのだから。日本の細やかな食事、これも体には合わない。目で楽しむほうが無難である。
 日本人は明るくまた無邪気に人付き合いをする。彼らは未来を生きているのではなく、現在に生きる。彼らの明るさは常に洗練された形で表され、決して騒々しさを伴わない。日本人の冗談は良く分かる。彼らは洒脱、諧謔を解する心を十分に持っている。心理的には奥深い処に位置するに相違ないこうした事柄に於て、日本人とヨーロッパ人との間に大きな差がないことを確認し、意外に思った。日本人の優しさは、その冗談が辛辣にならないことに現れている。
(婦人の口述筆記)
 日本の芸術の中でも、私は絵画、浮世絵の分野を取り分け素晴らしいと感じる。この分野では、日本人が造形を楽しむ視覚人間達であることが現れている。目でとらえたものを芸術の形にし、様式化された線に置き換えずにはいられないのである。同様に仏教だからと云って、感覚的なるものを宗教に還元することもない。アジア大陸の仏教が日本人の心の内に異質なのである。
全ては彼らに取り、形と色彩としての体験である。自然を在るがままに見る一方、且つ、高度な様式化が常に主流を占める点では有る意味で自然から離れている。明快さと単純な線、彼らは何にも増してそれを好む。絵画こそは全てを表すと受け留められる。
 ここでは、私がこの数週間に得た多くの印象から、僅かな部分しか述べ得なかったし、政治、社会の問題に就いても、口を開くことがなかった。畢竟、その分野では凡人は詩人に座を譲らねばならぬと心得るからである。
 がしかし、心に掛かる事柄がまだ一つある。
日本人は当然ながら西洋の精神科学の成果を称賛し、偉大な理想を抱きつつ自ら学問に没頭し、また成果をも挙げている。ただ、願わくば西洋に先んじた自らの偉大な徳を、汚さずに保ち続ける事を念頭に置いて欲しい。即ちそれは、生活を芸術的に築き上げることであり、個人の欲望を押さえた簡明、質素な態度、そして、心の澄明な静けさなのである。